アマゾン本【邪馬台国は宮﨑市にあった】は本当か?証拠と写真で探る

 

邪馬台国とは当時、女王として君臨していた卑弥呼が住んでいた国です

時代は紀元200年代~おもに三世紀半ば頃のこと。

卑弥呼は本名なのか。別の呼び名はなかったのか。

おもにこの三点を中心に写真とともに検証していきます。

 

 

 

宮﨑市には出雲ヤマタノオロチ伝説 伊勢神宮 高天原伝説三点セットが勢揃い

 

知られざる古代都市宮﨑市

 

地元古代研究者によれば、この笠置山古墳は変電所裏の小山が、人工的に作られた巨大墳丘墓である可能性が大きいとされています。

 

大きさは前方部と後円部をあわせると145.5メートルにもなる巨大なものです。(この大きさは魏志倭人伝の卑弥呼埋葬の古墳に近い)

 

奈良県桜井市箸中にある箸墓古墳を卑弥呼の墓とする説が有力ですが、古墳の大きさが墳丘長278mと笠置山古墳の倍近くあります。

 

卑弥呼が死んだ時、百人以上が殉死したことになっています。

笠置山古墳には、それらしい古墳がおよそ100基近く確認されています。

ほかの卑弥呼の墓とされる古墳の周辺からは、これらの傍墳の報告はありません。

 

築造年は3世紀中期。

 

西都原 男狭穂塚古墳・女狭穂塚古墳

西都原 男狭穂塚古墳・女狭穂塚古墳

 

西都原の男狭穂塚古墳・女狭穂塚古墳は5世紀前後と考えられていますので、3世紀にこのような巨大古墳に葬られた人物とは一体誰なのか。

 

邪馬台国は宮﨑市にあった】を検証する中で、その人物は徐々に明かされていきます。

 

笠置山古墳は大正時代に宮崎市によって史跡として認定されている場所だったようです。

いつの間にか住民の記憶からは忘れ去られ、柏田に大きな古墳があるという噂だけが残っていたようです。

 

葬り去られる遺跡

この墳丘一帯は1900年代中頃から、中央部を縦割りにするように、宮﨑市中心部を迂回するバイパス道路工事が始められました。

 

地元古代研究者は宮﨑市に発掘調査を陳情しましたが、思うようにははかどらなかったようです。

工事中、何度も現場に足を運んで拾い集めた品々は庄内式土器や瓶の破片から、出土物は2世紀後半から3世紀中ごろの物である可能性が出てきました。

 

一般的に、前方後円墳が作られ始めたのは、4世紀だとされています。

 

最新の研究では、畿内の箸墓古墳などは、3世紀の半ば頃まで遡れるかも知れないとされていますが、笠置山墳丘墓は、それよりもさかのぼる史上最古級・最大級の前方後円墳である可能性がでてきたのです。

 

前方後円墳のまわりからは、土を掘っただけの土壙墓が整然と100基余り並んでいました。もちろん100基すべてを確認したわけではなく、土壙墓の間隔と分布範囲から割り出した値である。

その土壙墓には、それぞれに祭祀土器や鉄剣、鉄鏃類などが収められていました。(地元研究者談)

 

 

 

バイパス

バイパス

手前のバイパス道路が笠置山墳丘を縦貫しています。

 

ヤマタノオロチ伝説

 

笠置山墳丘墓の前方部の先に、八坂神社があります。この神社は、別名「八龍神社」とも呼ばれ、ヤマタノオロチを祭っています。(GoogleMAP参照)

 

瓜生野に残されたヤマタノオロチ伝説の内容は、基本的に誰もが知っている出雲の物語と同じで、八つの頭と八つの尾を持つヤマタノオロチに、毎年、生贄の娘をささげていた村人を哀れんだスサノウノ命が、この怪物を酒に酔わせ退治するというものです。

瓜生野のヤマタノオロチが棲んでいたのは、柏田の奥の伊屋ヶ谷で、現在でも薄気味悪い場所。

伊屋ヶ谷の少し下流には、子捨てが平(コジエヒラ)と呼ばれる場所がありここに、毎年いけにえの娘を捧げたと言いいます。

 

五十鈴川

 

五十鈴川

五十鈴川

 

大淀川を渡り、対岸の跡江地区に跡江神社とよぶ小さな神社であります。跡江神社のある場所は、古来、伊勢と呼ばれる地名で、跡江神社は「伊勢の神明宮」と呼ばれていました。

宮崎平野に伊勢とよぶ場所があり神明宮が存在したのです。

 

三重県の伊勢と言えば、記紀神話にも出てくる場所で、中央を有名な五十鈴川が流れいます。

五十鈴川は伊勢神宮の参拝者が、禊を行う川として現在でも有名です。

 

宮崎平野の「伊勢の神明宮」も、大淀川を挟んで対岸には、五十鈴川があります。

笠置山の裾ををながれる小川です。河川工事でいまはだいぶ変化していますが、古代にはここの清流で禊ぎもできただろうと想像できます。

 

 

磐戸神社と笠置山墳丘は直線距離で2キロ弱。(GoogleMAP参照)右にスクロールしてみてください。

 

卑弥呼の影

 

笠置山墳丘墓から五十鈴川を挟んだ、上北方地区の一角に、高天原はあります。

 

天照大神を祭る磐戸神社でです。

通称、お伊勢様とも呼ばれるこの神社は、天照大神が隠れた磐戸の前に建てられていると言う伝承があります。

 

地元の伝承では、こここそが天照大神の磐戸隠れの舞台なのです。

 

天照大神のモデルとなった人物、それは邪馬台国の女王・卑弥呼であった可能性が考えられます。

 

後方は笠置山墳丘のある山稜。

 

神がきた宮﨑市

 

上北方地区は、地元では単に上北と呼ばれていいます、その呼び名はまさに「神来た地区」だったのです(瓜生野郷土史)。

 

上北方に隣接する東地区を下北方とよびます。下北方は上北方に舞いおりてきた神を守る人々が住んだ場所だったようです(日向地誌)。

 

 

笠置山墳丘墓を破壊したバイパス道路が、神社をかすめるように貫いています。

神社の前の工事でも、大量の遺物が出てきたそうです。

 

社殿の裏側に回ってみると、垂直に切り立った崖になっています。

洞窟らしき物も見えます。

建物は、洞窟の中に続いているようで、ここが天照大神が隠れたと言う洞窟なのだろうというような想像も出来ます。

 

 

いまも残る古代史の香り

 

磐戸神社のある上北方地区では、古くから鶏を天照大神の使い鳥として信仰する習慣が残されていました。

 

昔この地元の住民は、鶏をまったく食べなかったようです。

鶏を食べる事自体が昭和2年まで、禁じられていたようです。

地鶏が特産で鶏肉を良く食べる宮崎では大変異例な事ですね。

昭和3年以降この禁は解かれましたが、現在でも鶏を神の使いと崇め、鶏肉を食さない家が存在しているようです。

 

 

 

 近くには、天照大神の使い鳥が飛び回り時を告げたと言う「鶏足原」と呼ばれる地名もあるし、笠置山墳丘墓が鳥形をしていると言う事とも、何らか関係しているのかもしれません。

 

笠置山墳丘墓がある場所の住所は、瓜生野柏田です。

柏は、言うまでも無く黄鶏(カシワ)から転化した単語と考えられます。

現存する柏田と言う地名は、天照大神の田んぼから派生したとも考えられます。

左右にひろがる田んぼの真ん中を、五十鈴川が流れているのです。

 

柏田、笠置、上北方を含む広い地域は瓜生野と呼ばれていいます。

同じ呼び名で呼ばれていた地域が、大阪南部、大和川河口北岸に存在します。

大和川をはさみ南岸には、応神稜、仁徳稜など日本を代表する巨大古墳群がある機内地方の神話の里でです。

 

宮崎の瓜生野も、大淀川をはさみ南岸には、巨大な前方後円墳が幾つもある生目古墳群が位置しています。

 

 

 

生目1号古墳

生目1号古墳

 

生目古墳は日本最古の古墳

 

生目一号墳は、生目古墳群の中でも、最も古い古墳の一つと考えられています。

巨大な前方後円墳で、後円部の直ぐ横には、円墳である生目二号墳があります。

 

この生目二号墳を鳥の頭と見立てると、なるほど、確かに全体として羽を広げた鳥のような形をしている事が判るきがします。

 

前方後円墳はもともと鳥形古墳であったものが、後に簡略化されて鳥の胴体部分のみが作成されるようになり、前方後円墳となったのではないか考えられなくもありません。

 

前方後円墳の一部には、小さな造出がついている事があます。

これなどは、羽の名残と考えられそうです。

 

 

 

天照大神の使い鳥が古墳の羽のかたちとして残った

 

なぜ前方後円墳はもともと鳥形古墳であったかといえば、天照大神の使い鳥が飛び回り時を告げたと言う「鶏足原」と呼ばれる地名もあるし、古墳発祥期に近い笠置山墳丘墓が鳥形をしていると言う事とも関連してきそうです。

 

 

 

 

 

邪馬台国は宮﨑市にあった

 

邪馬台国の更に南には、女王卑弥呼に服従しない狐奴国があったとされます。

宮崎の南は鹿児島です。鹿児島は古代、大和朝廷を苦しめた「熊襲・隼人」の独立国家です。

魏志倭人伝が女王に服従しなかった国としてあげたのは、熊襲・隼人の勢力をさしているようです。

 

これまで宮崎市瓜生野・柏田平野およそ4キロ四方をを中心に検証してきただけでも、この地が邪馬台国であった可能性があり、笠置山古墳は卑弥呼の墓と推定しても矛盾いほどに条件が揃っています。

 

 

追記:鹿児島・大隅邪馬台国説もあるようですが、この時代、魏志倭人伝が女王に服従しなかった国としてあげたのは、鹿児島・熊襲・隼人の勢力です。

敵地に自分の墓を造るものかどうか疑問です。

 

参照記事:http://www.gondo.com/g-files/miya/miya1.htm

 

 

アマゾンレビュー

以前から邪馬台国にはとても興味がありました。邪馬台国の位置を比定した著作の多くは、魏志倭人伝に記述された邪馬台国までの行程をどう解釈するかに重点が置かれていました。本書は、地名考古学の手法を用いて全国の地名を網羅的に調査した上で、特異な土地であることを発見した宮崎を比定しており、説得力があります。また、地下式横穴墓の特徴を詳細に検証した上で、これこそがこれまで発見されなかった邪馬台国の殉葬墓であると推論しており、これも説得力があります。本書が邪馬台国の位置を特定する決定打になるかも知れません。本書で紹介されている数々の史跡を、自分の脚で歩いてみたくなりました。

魏志倭人伝中の邪馬台国の登場人物や国の名前と現在の地名との関連性を科学的に示し、また水行と陸行の行程を実際の地形を見ながら検証して、魏志倭人伝の邪馬台国の記載が非常に正確であったことを論理的に示している。また、九州南部に多い地下式横穴簿を殉葬の墓とする見方や、天孫降臨の高千穂峰山頂と天照大神の生誕の聖地であるみそぎ池の線上に卑弥呼の墓があるとの考察は非常に秀逸であり納得性が高い。これだけの材料が集まれば作者が邪馬台国は宮崎市にあったと特定するのも頷ける。後から振り返れば、本書はまさに邪馬台国論争に終止符を打つ一冊となろう。今後日本の記紀、中国の魏志倭人伝、朝鮮の三国史記の比較から新たな発見が出てこないか楽しみである。

タイトルとURLをコピーしました