ブログ小説【愛の飛行機雲第5話 精子間闘争】 

 

第5話 精子間闘争あらすじ
一宮とし子は男達からトンボの交尾の話しを聞いて戸惑う。トンボの交尾の習性として先の交尾した精子を書き出すという。とし子はジェット戦闘機のパイロットに緊急事態が発生していることを知る。

 

精子間闘争

 

生存競争

 

「一度見て見ませんか、トンボの交尾。面白いですよ」
「失礼なことを言ってはいかんよ」
「面白そうね」
とし子は笑った。午前中ぐらいなら、つき合ってもいいと思った。
「奴らはかわいいヒコーキ野郎です」
パイロットは先ほどから、イマムカシヤンマが描かれたとし子の画帳を、大事そうに腰の位置で持っている。

 

「気に入ってもらえたかしら」
「遠慮なく使わせていただきます」
若者には二人の会話は聞こえていないようだった。何度も首をのばすようにして、木立の方を見ている。
「トンボのオスは、射精する前にあらかじめメスの性器の中をきれいに掃除するってこと、知ってました?」
若者が振り向き、唐突に声をあげた。

 

 

「知らないわ。そんなこと」
若者によって、いやな気分にさせられるのはこれで何回目だろう、と考えた。
「次の世代に自分の子孫を残すために、トンボは涙ぐましい努力をしているのです」
パイロットの声に、とし子の心は少しは落ち着いた。微風が彼女に向かってふき始めている。薄い男の臭いが感じられる。

 

昆虫には「精子間競争」があり、複数のオスの精子がメスの体内に入った場合、それぞれの精子間で、生存をかけた、し烈な競争が起きる。先に交尾をしたオスと、後に交尾をしたオスとでは、後の精子の方が子孫を残しやすい。

 

それでも用心深いトンボのオスは、後に交尾をする時も、ペニスの先に発達させた耳かき状の器官を使って、前のオスの精子をかき出してしまう。その行為を若者は、掃除と表現した。

 

可愛い飛行機野郎

 

「小さな飛行機野郎を、ジェット戦闘機の操縦席の窓越しに見たことがあります」
「本当!」
「日向灘沖の訓練を終えて、新田原基地への着陸態勢に入ってしばらくすると、気象条件によって、この高鍋湿原がトンボの複眼のように光って見える。そんな時に一瞬、操縦席の前をトンボが飛ぶ」
パイロットは再びサングラスをかけ、空を見上げている。夫のイメージは消え、精悍なジェットパイロットの表情に戻っていた。真夏の強い日差しが湿原全体に広がり、所々に積乱雲が発達している。

「怖い」
とし子はパイロットが自分の気を引くために、出鱈目を言っているのだと思ったが、聞くうちに真実に思えてきた。

 

先ほど見たイマムカシヤンマの乱舞を、大空で見ることのできるのは彼しかいない。
「可愛い飛行機野郎達です」
パイロットは画帳を大事そうに別の手に持ち替えながら、しっとりとした声でつぶやいた。

「もう、時間がないのでしょう?」
とし子は二人の男を見比べながら、声をかけた。
「描き直したいの。スケッチ」
「こんないい出来なのに、勿体ないですよ」
と、若者が言った。パイロットも軽くうなずく。

 

 

「さっきの乱舞を見て、気が変わったの」
「山本君、僕らの原稿だけ先に印刷屋に渡して、表紙の分、一週間待ってもらおうよ」
「はい。明日、印刷屋さんに電話入れておきます」
「これ以上の表紙が出来るんなら、僕らのトンボ学会報告書も、一段と見栄えがよくなる」

パイロットは口元に笑みを浮かべて、画帳をとし子に手渡した。
「勝手を言ってごめんなさいね」
とし子は自分が描いたトンボを、みすぼらしく感じた。一匹ではなく、大空を乱舞するイマムカシヤンマの雄姿が描きたくなっていた。

その日の午後、湿原から帰宅したとし子は、早朝に目にした大空に舞うイマムカシヤンマのスケッチに没頭した。ジェットパイロットが目撃したという、操縦席から見た俯瞰の構図で、乱舞するイマムカシヤンマを様々に形を変えて描いた。下部に光る湿原を添えた。

とし子は描きあげたスケッチをソファーの上に立てかけ、窓際からながめた。順光の夕日が、ソファーに向かって差し込んでいる。十数匹のイマムカシヤンマが、画帳全体を飛び交っている。
「出来た」
とし子はつぶやいたが、何かもの足りない。
「何かしら…」
陽はすっかりかげっていた。部屋は急激に灰色の夕闇につつまれていた。窓の外に見える空が、ほんのりと焼け残っている。とし子は暗い部屋の壁にもたれたまま、しばらくぼんやりとしていた。

 

学生との別れ

 

金曜日の昼前、玄関の郵便受けをのぞくと、一通の葉書が来ていた。差出人の山本和行が誰だか、文面を読むまで思い出せなかった。
―昨日、父が急逝したと連絡がありました。東京に帰ります。複雑な事情を抱えているために、もうこちらの大学には復帰できないかもしれません。トンボ学会報告書の完成に立ち会えなかったのが残念です。あとを源田さんと一宮さんにお願いします―

「どうして携帯してくれなかったの。携帯番号、知っていたでしょう」
差出人の連絡先は何処にも書かれていない。葉書を持つとし子の手がふるえていた。春先から先週までの、若者との関わり合いがいろいろと思い出される。

 

 

「イマムカシヤンマの挿し絵を描くきっかけを作ってくれたのは、君だったのに」
とし子は空を見上げた。積乱雲が沸きたっている。若者が去ったのを知って、とし子はこれまで続けてきた彼らとの緊張感が、ゆるむのを覚えた。その時、とし子は目の前に、桜の花びらがひらひらと舞い落ちる幻覚を見た。

「桜!」
とし子は弾かれたような声をあげた。挿し絵の物足りなさの原因は、桜が欠けていたからだと気がついた。

 

乱舞するイマムカシヤンマの天空から、無数の桜花が舞い散る。歌舞伎一八番、千本桜の舞台絵のような桜花を描くことを、若者は別れによって暗示してくれた。

若者が関わった、トンボ学会報告書に、これほど相応しい絵柄はない。とし子はその夜、制作に没頭した。

 

パイロットの行方不明

 

日曜日は雨だった。高鍋湿原はどんよりとモヤにつつまれていた。広い駐車場に乗用車が一台駐車していた。とし子の車がやってきたのを見て、乗用車のドアが開いた。運転席から老人が降り立ち、金網の門の方に歩いていった。いつもの保護観察員の老人だった。
「おはようございます」
とし子はレインコートの中に画帳を抱え込んでいる。
「無事を祈りたいね」
老人は雨をよけるように、こうもり傘の中で背を丸め、煙草に火をつけた。
「……」
老人が何を言いたいのかわからなかった。とし子は笑みを浮かべて、老人の口元を見つめた。
「昨夜、新田原基地を緊急発進したジェット戦闘機が、日向灘沖で行方不明になっているの、知らない?」
「本当に!」
とし子は絶句した。レインコートの中の画帳を落としそうになった。

昨夜はトンボ学会報告書の新たなスケッチ制作に没頭していて、テレビも見なかった。今朝はまだ新聞も読んでいない。いつもなら自宅の車庫から一〇号線を北上し、高鍋湿原までの間、カーラジオのスイッチを入れるのだが、今朝は、挿し絵の完成に酔いしれて、入れ忘れていた。

「いつもの日曜日なら、二人のうちどちらかが来ている時間だ」
老人は若者が帰郷したことを知らないらしい。とし子はこれから先どうしていいかわからなかった。
「遭難したパイロットが彼だとは断定できん。緊急事態なので、来られないだけかも知れないしね」
老人は煙草を捨てた。吸い殻の残り火が、アスファルトの雨水の中で、赤く燃えてすぐに消えた。

「そうよ」
とし子は語気を強め、笑おうとするが笑えない。すぐに老人の元から離れたかった。
「イマムカシヤンマ、見てくる」
「こんな天候じゃね」
「飛んでるわよ」
とし子は足を早めて,桟道に向かった。
モヤは濃くなる一方のようだった。一〇メートルほど先に、雨に濡れた湿地が広がっている。

彼女はレインコートの中から、画帳をとりだした。何枚かページをめくるうちに、イマムカシヤンマの乱舞する絵があらわれた。無数の桜の花びらが、トンボに降りかかっている。
「この絵が、あなた達のトンボ学会報告書の表紙を飾るのよ」
とし子は静かな声で、つぶやいた。
雨だれが表紙の絵を濡らしはじめた。一粒、また一粒……、雨あしが強くなり、モヤはなお濃さを増していく。愛の飛行機雲終わり

 

ブログ小説【愛の飛行機雲第4話 イマムカシヤンマの乱舞】
第4話 イマムカシヤンマの乱舞のあらすじ 一宮とし子は若者とジェット戦闘機のパイロットから頼まれたイマムカシヤンマの挿絵が思うようにすすまない。次ぎに高鍋湿原をおとずれたとき、とし子はイマムカシヤンマの群舞を目にした。 ...
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