ブログ小説【愛の飛行機雲第4話 イマムカシヤンマの乱舞】

 

第4話 イマムカシヤンマの乱舞のあらすじ
一宮とし子は若者とジェット戦闘機のパイロットから頼まれたイマムカシヤンマの挿絵が思うようにすすまない。次ぎに高鍋湿原をおとずれたとき、とし子はイマムカシヤンマの群舞を目にした。

 

イマムカシヤンマの乱舞

 

予期せぬ電話

 

七月の梅雨明けの頃までに、とし子は何度かイマムカシヤンマの描きかけの画帳を開いた。鉛筆を手にし、白い画帳に向かっても、思うようにイメージが浮かんでこない。子供の頃、初夏から真夏にかけて、あれほど身近に見かけていた、ギンヤンマの飛翔の姿が、画帳に定着しないのだ。画帳を開くたびに、気分が重くなる。請け負ったことを悔やんだ。

そんなある日の午後、山本と言う若者から、携帯に電話がかかってきた。高鍋湿原で出会った若者と気づくまでに、少し間があった。予想していなかったことなので、気分がいっそう滅入った。
「なによ、電話なんかして」
若者のいやな部分が、一気にこみ上げて来て、とし子は生の感情を口にした。

「すみません。お願いしていた、表紙の挿し絵のことなのですが」
「ああ、あれね。お断りしようかと思っているの」
「待ってください。僕たちの原稿はもう出来上がっているのです」
若者のあわてたような声が携帯から飛びだしてくる。
「見たことがないものは描けないわ」
「今なら湿原に飛び交っています。明日の日曜日に見に来てください」
初めてあった時、湿原入り口の金網の前にたって、
「ここにヤゴがいます。見てください」
と叫んでいた時の、必死に訴えていた表情が浮かんできた。

 

(その手にのるものか)
とし子は内心そう思いながら、携帯を切った。普段、ひっそりと暮らしているとし子に、電話がかかってくることは滅多になかった。

 

夫との隠語

その夜、夫から三週間ぶりに船舶電話がかかってきた。夫の語る航海や漁の話は、聞いていて、あきることがなかった。とし子も庭に咲いている花や、描きためたスケッチの話をした。
夫はとし子が話す身近な話題をよろこんだ。国内で報道されるニュースや話題は、人工衛星の電波を受信する船内テレビで、リアルタイムに見ることができる。プロ野球に興味のないとし子は、遠洋の夫から試合の結果を知らされたりして、これまでに何度も苦笑した。

「八月はじめに目井津港に帰港する」
と話し、それから二人にしかわからない、隠語を交わした。とし子は電話を切ったあとの気だるさの中で、今年こそ妊娠しようと決心しながら、スケッチブックを開いた。寝床に横たわると、いつとはなしに右手が股間に伸びていた。

 

翌朝、とし子は車を運転して、高鍋湿原に向かった。助手席には昨夜、夫からの電話のあと描きあげた、イマムカシヤンマのスケッチブックがあった。子供の頃の記憶にあるギンヤンマをやや大型にして、一見すると、オニヤンマに似た迫力あるトンボが薄緑色に描かれている。二人の男との約束をうやむやにした為に残る、後々の呵責(かしゃく)がいやだったので深夜までかかって仕上げた。
「お気に召さなくて結構」
とし子は走りながら、つぶやいた。日曜日の朝だというのに、やたら赤信号にぶつかる。

「いつも早いですね」
フェンスの入り口のところで、麦わら帽子をかぶって立っている保護観察員は、とし子を覚えていた。
「涼しいうちがいいとおもって」
とし子は軽く頭を下げた。
「さっき来ましたよ。二人は昨年、イマムカシヤンマを見つけてから、ここでは有名人ですからね」
保護観察員の含み笑いを横目に見ながら、とし子は桟道を歩いていった。
「この前、一緒にいたところを見られたのだろう」
別に後ろ暗いことはなにもないが、些細なことが気になる。

 

それにしても、あの二人が有名人とは知らなかった。この画帳を渡してしまえば、彼らとの関係は終了だ。だが、すでに二人の男性が来ているのがわかったことは、とし子にとって収穫だった。
二人はすぐにわかった。一人が双眼鏡をのぞき込み、別の一人がノートに記録を採っていた。

「おはようございます」
とし子は、離れたところから声をかけた。二人は彼女を見て、少し戸惑っているようだった。こんな早い時間にくるとは予想していなかったのだろう。
「約束のスケッチを届けに来ました」
「昨日はすみませんでした」
若者がペコリと頭を下げた。
「ご迷惑をかけてすみませんでした。昨日、山本君から報告をうけて、あきらめていたところです」
ジェットパイロットは、今朝も濃いサングラスをかけていた。

 

スポットライト

「受け取ってください。あまりいい出来ではありませんが」
とし子は画帳をパイロットの前に差し出した。若者がすぐによってきて、男二人は画帳に描かれたスケッチに見入った。とし子は男達から離れたところで、湿原に目をやった。

草むら一面、朝露が光っていた。様々な色をした小さな花が咲いている。それらは、どれも雑草のようだが、絶滅が心配されている、野生のサギソウやモウセンゴケも交ざっているのだろう。

とし子は東の木立の途切れた方に目を向けた。湿原の一角が朝日によって、スポットライトのように照らし出されていた。

スウッと、一匹のトンボが草むらの中から舞い上がり、光にすい寄せられるようにして宙に浮かんだ。しばらくすると、また一匹、続けてもう一匹、と次々に草むらの中から、朝日のスポットライトに向かって、舞い上がっていく。羽を広げているだけで、ほとんど上下運動がない。光の中では、上昇気流が起きているようだった。

「来て!見て!」
とし子はあわてて、男達に声をかけた。
「何ですか」
パイロットが素早く走り寄ってきた。
「トンボよ。あんなに沢山」
「山本君。イマムカシヤンマが群舞している」
パイロットは濃いサングラスをはずし、視線を乱舞するイマムカシヤンマに釘付けにしたまま、動きをとめた。
「あれっ」
とし子はジェットパイロットの素顔を初めて見て、あまりにも夫に似ていることに、思わず声をあげた。
「似てる」
何度もつぶやいた。二人はイマムカシヤンマに夢中だが、とし子はパイロットの顔にすい寄せられるように見入った。

 

交尾

「すごい、こんなの初めてだ」
若者は驚喜し、首に下げた一眼レフのシャッターを、バシャッ、バシャッと切り続けた。
「ありがとう、一宮さん。僕たちはあなたのおかげで、千載一遇のチャンスにめぐり会うことができた」
パイロットも興奮していた。とし子から見つめられていたことなど、眼中にないようだった。イマムカシヤンマの朝の乱舞は、十分間程度で終わっていた。二、三匹を残し、あとの大半は木陰の中に消えていた。
「複眼が、緑色に輝いていましたね」
と、若者が声をあげた。
「このまま気温が上昇すれば、今日は交尾の最盛期になるよ」
「僕もそう思います」
「交尾?」
とし子が小さな声をあげると、
「申し訳ありません。つい、夢中になりまして」
と、パイロットはあわてて言葉をうち消すような仕草で、頭を下げた。

 

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