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【縄文時代の人と暮らしかた】驚愕 縄文時代は一万年以上も続いた

古代神話めぐり
火炎土器

火炎土器 ウィキペディア

令和をさかのぼることおよそ一万年前後に制作された土器です。

この創造力といい、匠の技といい、現代人もおよばないほどの迫力があります。

日常生活の中の余暇に制作されたものか、すでに専門的な工房があって、芸術性豊かな職人たちが共同で造りあげたものなのか。

想像がふくらみます。

一万年前後の縄文人は、その日暮らしの生活の糧に追われてばかりではありませんでした。

この火炎土器の目的が何であれ、これだけの想像力と技を発揮できる精神的な余裕を持ちあわせていた人々もいたのです。

一部の人々とはいえ、いまから一万三千年前から二五〇〇年ぐらい前までの縄文時代に、このような芸術性にすぐれた土器を造れる日本人が、この日本列島の各地に暮らしていました。

縄文時代の普通の人々は、どんな日常生活をしていたのか、これから想像していきましょう。

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縄文遺跡遺跡群 世界遺産に

 

北海道・東北地方に現存している縄文時代の遺跡群が世界ユネスコ遺産に登録されます。
2021年7月16日〜31日に開催されるユネスコ世界遺産委員会で正式決定されます。

日本の古代が世界に認められて、日本人の心の遺産がまたひとつ増えました。

西都原考古博物館

西都原考古博物館

北海道・東北地方の縄文遺跡が世界文化遺産に登録は日本の縄文文化を代表して

今回北海道・東北地方の縄文遺跡が世界文化遺産に登録されることになったのは、それら日本各地の縄文文化遺跡を代表として選ばれたのですね。

縄文時代以前の文化を旧石器時代・新石器時代とよんでいます。

縄文時代の次の時代は弥生時代です。

縄文時代とはいつのこと

 

縄文時代とは今からおよそ一万三千年前後から二千五百年前まで延々とつづいた時代のことを表します。

石器時代との違いは、暮らしの中に土器が使いはじめられ、それまでは洞穴や大樹の根株を住まいにしていたのを、木の枝やカヤなどの植物で人工的な屋根や壁の竪穴住居が現れ、食物のゴミ捨て場として貝塚ができるようになりました。

縄文人は日本のどこにでも住んでいた

西都原考古博物館

西都原考古博物館

弓矢を使った狩や植物の採取、そして漁猟による海産物の採集を主な食料源としながら、延々と続いた文化を縄文時代と呼んでいます。

食べ物を収穫する手段としては、石器時代とあまりかわりはありませんでしたが、縄文人と石器人との一番のちがいは、縄文人が竪穴住居を手にいれたことです。

竪穴住居が縄文人の暮らしをかえた

 

竪穴住居を建てるということは、定住を意味します。

この時代になると、気候の温暖化がすすんで、移動をくりかえさなくても、定住の生活範囲で日常の食料調達が可能になりました。

男達が狩猟や採取のために数日間程度の移動をすることはありましたが、彼らには移動がすめば家族の待つ竪穴住居がありました。

女性たちの日常は、調理や子育て、家のまわりに耕した畑の手入れがおもな一日でした。

これらは、一万年前も令和の現代もあまり変わりはありません。

縄文集落は日本全土にひろがっていた

西都原考古博物館

西都原考古博物館

日本各地にはいまでも十万ヶ所規模で、縄文遺跡があるといわれています。

ひとつの集落には、数戸の竪穴住居がありました。

狩猟や採取、漁猟では、数戸の住民たちが協力しあっていました。

そのほとんどは今日では草木におおわれたりして、素人目には縄文遺跡だとは判別つかない状態のようです。

当時から、日本のどこにでも縄文人は暮らしていたのですね。

一万三千年以上も続いた縄文時代

 

西都原考古博物館

西都原考古博物館

情緒的に表現すれば、一万三千年も牧歌的な時代が続いたのです。

気が遠くなるほどの時の流れですね。

ひとつの時代がこんなに長く続いた時代は、縄文以降ではありません。
弥生時代から令和時代でも、たったの2021年間です。

いかに、縄文時代代が延々とつづいていたか想像するだけで気が遠くなりそうですね。

なぜこんなに延々とひとつの時代がつづいたのか。

一番の要因は、気候の温暖化で、自然が豊かであったこと。

山も野も海岸も、縄文人が暮らすには、ありあまるほどの自然環境に恵まれていたのです。

縄文人は領地を争ったり、地位の上下関係もうまれていなかったので、自然と一体に日々を過ごしていました。

 

縄文時代の終わり頃には稲作も

 

縄文時代は草創期、早期、前期、中期、後期、晩期と六段階に区分されています。
ということは一万三千年もつづいた縄文時代の空気の流れも、進化の方に向かって徐々に流れていたのです。
縄文後期になると、稲作の痕跡も出現しています。

稲作が普及していくにつれて、領地の争いごとや地位の上下関係が生まれはじめました。

 

縄文人の暮らしかた

 

縄文時代最初の頃の縄文人の暮らしぶりは、ほら穴や大樹の下で生活していたと想像できます。
雨風や夜梅雨を防ぐだけの、野生に近い暮らしぶりだったはずです。

野生の動物とおなじように移動しながらの生活だったのでしょう。
徐々に気候も安定してきて、年中移動をしないでも、比較的住居に近い自然の中で、自分たちが日頃生活していくだけの食料が手に入るようになりました。

縄文人たちはようやくほら穴や大樹の木陰の住まいから脱出するようになって、現在、竪穴式住居と呼ばれているような固定した住いを確保するするようになりました。

竪穴住居の様子

カヤ、草木、葺きの竪穴住居の内部の中央には穴を掘った炉がありました。

西都原考古博物館

西都原考古博物館

炉の中には、常に数個の石がおかれていました。
肉や魚介類などを蒸し焼きにするための、調理道具です。

壁際には、石や丸太のおかれた調理場がありました。
そこで、石包丁で下ごしらえした動物の肉や野辺で摘んできた野草を、土器の器に入れて、炉端に運んでいきました。

西都原考古博物館

西都原考古博物館

縄文の人々

 

はじめの頃の縄文人は、家族単位の生活をつづけていて、他人との接触は、あまりありませんでした。

種の継承という考えからして、生きとして生きるものは全て単独での暮らしは考えられません。
男女が共同で暮らし、生殖をくりかえしながら家族を増やしていきました。

食料調達の調整と、濃い血縁関係の結婚をさけるため、家族単位から次第に分散をくりかえしながら、おなじ集落からはなれて住むようになりました。

集落が遠くに分散してつくられるようになると、年頃の男女の出会いの場が困難になりました。

秋の終わり頃になると、集落の人々が集まる祭りのようなものがありました。

年頃の男女は、そこでめぐり会って、男性は女性の集落に嫁いでいきました。

集落では新しい夫婦のための竪穴住居が造られました。

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