ブログ小説【愛の飛行機雲第2話 トンボの楽園】

 

愛の飛行機雲第2話 トンボ楽園あらすじ

とし子は若者が南九大生でトンバ学会を主宰しているというが、とし子には興味ない話しだった。
興味ないままに別れたが、日がたつにつて若者が気になってきた。

 

愛の飛行機雲

 

トンボの楽園

とし子のこわばった顔色を察した若者は、照れ笑いをつくった。

「いきなりそばで声をかけるもんだから」
とし子の声は怒気を含んでいた。創作に没頭していて、周囲にまったく無警戒だったので、息がとまるほどだった。海原の情景が消えたばかりの時だった。

「すみません」
二十歳前後の若者は目を細めて、やや太い首を窮屈そうに折り曲げて、ぴょこんと頭を下げた。
「僕、南九大の学生です。トンボ学会を主宰しています」
「トンボ学会。なに、それ?」
とし子の警戒心はまだ解けない。

 

「ここはトンボの楽園です。ご存じですか」
「興味ないわ。トンボなんか」
とし子は若者を突きはなすように素っ気なくつぶやいた。田圃の中をゆっくり動いている農機の方に目を向けた。農婦がいてくれてよかったと思った。

 

「今頃、どこにトンボがいるの。あれって、夏の昆虫でしょう」
とし子は運転席のドアーの前に立っていた。腹立たしさが残っている。
「はい。夏に成虫になるのです。いまはヤゴの状態で水中にいます」
若者は金網の張り巡らされた湿原の方に目を向けた。首に一眼レフカメラを下げている。

 

「ヤゴ?」
とし子は画帳を助手席に放り込みながら、若者に向かって声をなげかけた。
「あっちにいます。見てください」
若者は湿原を囲っている金網のところに走っていった。
「ここです」

 

若者は金網の中を指さしながら、とし子に振り向いた。
とし子は若者のそばに行くべきかどうか迷った。無視してこのまま車に乗り込んでもいい。動悸がなかなか消えない。その時、一瞬なりとも夫の姿が過(よ)ぎっていたのも、とし子には不愉快だった。

若者にはまだどこか少年のあどけなさと善良さが見える。少しぐらいの話なら、聞いてやらなければ大人気がない。何か起きればすぐに車に乗り込んで発車すればいい。大声を出して、農婦に助けを求めることもできる。とし子は若者の方にゆっくりと向かった。

 

イマムカシヤンマ

「先ほどはごめんなさい。びっくりさせて」

若者は近づいてくるとし子に、明るい声をあげた。
「ヤゴって、どこにいるの」
とし子は金網越しに、中の水たまりをのぞき込んだ。
「あすこの水草に宿っているのですが、金網越しでは見えません」
貴重な湿地性植物や昆虫が生息している高鍋湿原は、金網の柵で保護されていて、普段は入れないようになっている。
初夏から八月いっぱい、保護観察員が常駐する日中だけが、湿地内の観察道を散策できる。近くの小屋の軒先で多数の雀が騒ぎ立てている。

 

「そう言って、私をだますつもりでしょう」
「だましたりはしませんよ。もう一人の仲間に聞いてもらえば、僕が本当のことを言っているのがわかってもらえますから」
「仲間?」

 

とし子の声が再び固くなった。ようやくさめ始めていた警戒心が動き出した。
「新田原基地のトンボ好きな、ジェット戦闘機のパイロットさんです。今日は訓練で来ておりませんが」
「変な趣味のパイロットさんね」
「嘘じゃありません。彼と僕は去年、この湿原で友達になりました。昨年の夏は二人で、新種のトンボを発見したんですよ。ここの湿原で」
若者は空を見上げたり、両手を大きく広げて見せた。

「そう」
若者はとし子の反応の薄さに不満を覚えた。

 

「僕たち二人が発見したトンボは、イマムカシヤンマという大型のトンボです」
「知っているわよ、ヤンマって」
とし子は子供の頃、実家の庭先を流れていた小川の上を、さっそうと飛び回っているギンヤンマの姿を思い浮かべた。
毎年、梅雨時期から真夏にかけて、小川と田圃の上を低く尾っぽでつながったまま気持ち良さそうに飛んでいた。

「この高鍋湿原には、国内最小とされるハッチョウトンボが生息しています」
若者の言うようにハッチョウトンボを始め、希少な昆虫や植物が、この湿原で次々に見つかっている。

 

東京出身の若者

イマムカシヤンマという大型のトンボが見つかったというニュースは、昨年の夏、何度か聞いたように思う。

最小と最大のトンボが生息する湿地として、一躍注目されるようになっていた。
「詳しいのね。大学でもトンボを勉強しているの」
「いいえ。専攻は経済学です」
「畑違いの趣味」
とし子はくすっと笑った。

 

「趣味の方が、僕には勉強になります。こちらの大学に来なければ、新種のトンボを発見することもできなかったのですから。それに、この夏は僕と彼と二人だけで、トンボ学会報告書を作成するんです」
「難しそう」
「昨年見つけたイマムカシヤンマの生息が、今年も確認できれば、正式に日本昆虫学会トンボ部会に認められるんです」
「それでさっきから、ヤゴを探していたの」
「はい。春先のこんな暖かな日には、水中の茎に宿っているヤゴ達が、水面近くまであがって来て、日向ぼっこをするんですよ」
とし子は笑顔を見せたが、あまり興味はなかった。

 

「どちらのご出身?」
「東京です」
「まあ……」
「僕、勉強、苦手なものですから」
とし子は単純に出した言葉だったが、若者は敏感に反応したようだった。しばらく沈黙がつづいた。
「じゃ、これからもトンボ、がんばって」
若者は黙ってお辞儀をした。
とし子は若者の目が、トンボを話していた時の輝きを、急に失っているのが気になった。

 

(傷つけるようなこと、なにも言っていない。いやな思いをしたのは、むしろ私の方なんだから)彼女は何度かハンドルを握る手に力をこめた。

とし子が次に高鍋湿原を訪れたのは、五月の連休だった。若者が来ていそうな気がした。最初の出会いにびっくりさせられてしゃくだったのと、別れ際のわだかまりみたいなものが彼女に残っていた。

この頃、朝、掃除機をかけている時、モーターの振動音の中に、若者の暗い表情が浮かび上がってきたり、スーパーで夕食の食材を買ってる最中に、若者らしからぬ落ち込んだ顔があらわれる。それがいつの間にか、とし子の一番気に入っている夫の微笑みに入れ変わり、すうっと脳裏から消えていく。
「いやだわ」
とし子は気分を重くして、つぶやいた。

 

今年になって、桜の花をやっとほかの花並みに、普通に見られるようになったと内心よろこんでいたのに、ただ一度しか会っていない若者が、前触れもなくイメージされることに戸惑った。
一ヶ月前、満開の花につつまれていた高鍋湿原の桜並木は、すっかり若葉に衣替えをしていた。

 

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